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感想:『直感力』

直感力

将棋の羽生名人による、「直感力」を養う方法をテーマにしたエッセイ集。

将棋に明るくないとついていけない話があったり、抽象的な話題が多かったり、かなり難解。それでも頑張って読み進めていくと、ハッとするような深い言葉に出会える。

羽生名人の哲学が詰まった言葉の海の中で、何が心にしみるかは読み手の精神年齢やこれまでの経験次第だと思う。歳を重ねてから読み返すと、昔意味が分からなかった箇所が理解できるようになっている、そんな楽しみ方もできる本なのではないだろうか。

私の印象に残ったフレーズを挙げていくと:

「ロジカルに考えて判断を積み上げる力も必要だが、無駄と思えることを取り入れるのも大事だと思う」

「迷ったら本は買った方がいい」

「インプット以上にアウトプットを」

「ミスを重ねないためにどうするかということだが、まずはともかくも一呼吸おく」

「『長い距離をずっと走り続けねばならない』と考えるのではなく、すぐそこの、あの角までを目標に、そこまではとりあえず走ってみようといった小さな目標を定めながら走るのがいいと思う」

「自分の得意な形に逃げない」

「分からない、迷っている、悩んでいるとか空回りしているといった苦しい時間こそが、後々の財産となる」

「まずは目の前にあること、何か自分の中で響くことに向き合っていくのがいい」

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レクイエム・レクイエム

フォーレのレクイエムを気に入ったので、YouTubeで公開されていたモーツァルトのレクイエム全曲も聞いてみることにした。ゆっくりあの世に旅立っていく魂を表したようなフォーレのレクイエムと違って、こっちは燃え盛る地獄の業火のようにエネルギッシュ。モーツァルトは自分も死期が迫っている中、よくこんなパワフルな曲の構想を練れたものだ。さすが天才。しかし読書用BGMには不向きで、またもし自分のお葬式でこの曲をかけられたらおちおち死んでいられなくなりそうだ。

そんなことをつぶやいていたら、クラシックに詳しい先輩の旦那さんから、ヴェルディ、ベルリオーズ、三善晃、デュリュフレ、ドヴォルザークもおすすめというコメントをいただいた。世の中には聞いても聞いても終わらないくらいたくさんのレクイエムの名曲がありそうだ。

ハッ、終わりがないのが終わり…それがレクイエム・レクイエム!?

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お葬式

結婚式がクリスチャンでなくてもキリスト教式で出来たり、バリ人でなくてもバリ式で出来たりするなら、お葬式も仏式じゃなくていいんじゃないの?と若干の皮肉を込めて思う。

賛美歌の響くキリスト教式のお葬式。ガムランの音色と共に賑やかにあの世に送り出されるバリ式のお葬式(バリに持っていくなら遺骨にしてからでないと無理そうだが)。

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宗教曲偏愛

私はキリスト教の宗教曲が好きだ。プロテスタントの中高一貫校で教育を受けたからだと思う。自分で歌っていたこともあったが下手くそで上達しなかった。それでも聞く方は好きでiPadに入れたのを時々聞いている。

今日、何となく気になっていたフォーレのレクイエムをiTunesからダウンロードした。

静かで邪魔にならなくて、読書用のBGMにいい。レクイエムとしてはイレギュラーな構成らしいが、この静かさはしんみりと故人の魂を見送るのにもってこいではないだろうか。

それともう1つ、アヴェ・マリアばかりを集めた合唱のアルバムをダウンロードした。

アヴェ・マリアはカッチーニのものが一番好きなのだが、今日何気なくWikipediaで調べてみたら、このアヴェ・マリア、本物のカッチーニの作品ではなく20世紀になってからロシアの作曲家が作ったものだとか。まるで安土桃山時代の銘品だと思っていた茶碗が昭和になってから焼かれた物だったと知ってしまったような気分だが、名曲なのに間違いはない。

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悲嘆反応

大切な人を亡くしたとき、私はひとしきり泣いた後、躁状態に近くなる。そしてやたらと饒舌になる。誰かに亡くなった大切な人のことを話したい。亡くなった人のために何かしてあげたい。

祖父が亡くなったときは、祖父との思い出を幼少期から10代に至るまで全部文章化しようとした。中島らもさんが亡くなったときは、レクイエムじみた童話を書いた。千石先生が亡くなったときは、ポエムを書こうとしてすんでの所でやめた。人間に限らず、飼っていた犬が死んだときも、ものすごいスピードでデジカメに入っていた犬の写真を全部現像したり、自転車を飛ばして遺体が傷まないように大量の氷を買いに行ったり、普段は考えられない早さで動いた。

そうしてその人のことを記憶に焼き付けようとしているのか、悲しみで潰れてしまうのを無意識のうちに防ごうとしているのか分からない。ひねくれた見方をすると、「大切な人を亡くした可哀想な私、その人のために悲しむ優しい私」に酔っているのかもしれない。

こんな反応はおかしいのかと思ったら、心理学の本に正常な悲嘆反応として言語活動が活発になるというのが載っていた。すると私の反応は別に異常ではないのかもしれない。

また、どこかでいつまでもそうやって亡くなった人のことを悼んでいる状態から立ち直りたくないという思いがあるような気がする。単に躁状態で気持ちよくなっているからなのかと思ったら、悲しみは亡くなった人と共にいることで、悲しみの中にい続けることでずっとその人と共にいたいという思いがあるからだと分析している人がいた。

その人を心の中で弔うのが終わったと思うまで、心ゆくまで弔いの務めを果たせばいいとそのサイトには書かれていた。

ひとまず誰かを亡くしたときの私の反応が異常ではなくて安心した。

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